鉄道の建設 [編集]
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/05/21 03:32 UTC 版)
「センターヴィル軍用鉄道」の記事における「鉄道の建設 [編集]」の解説
ぬかるんだセンターヴィル・ロードを牛に荷車を引かせる代わりに、予備および鹵獲した資材を利用して鉄道を建設するという考えが現実的な案として浮上した。しかしながら、1861年11月7日、オレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道は、この新しい鉄道敷設のために会社が保有するレールを使用することを拒否した。このため、トーマス・シャープ大尉の命令により、北西に直線距離で60マイルほど離れたウィンチェスターに保管されていたボルチモア・アンド・オハイオ鉄道のレールを使用することとされた。レールはウィンチェスターからストラズバーグ(Strasburg)までの20マイルは荷車で、ストラズバーグからマナサス・ジャンクションまでの60マイルはマナサスギャップ鉄道で運ばれた。1861年の時点で南軍が鹵獲していたボルチモア・アンド・オハイオ鉄道の資材を利用したことは当然のことであった。アラバマ第9歩兵連隊のマクレラン二等兵は、11月23日の日記に「6マイルの鉄道敷設のために、5万人が1日6時間働いており兵営で働く時間が無い」と記している。11月30日の新聞には、計画した線路の完成には2ヶ月がかかるだろうとの記事が掲載されている。 建設は12月にオレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道のマナサス・ジャンクションから開始された。12月14日の新聞記事では、この新しい路線は完全に調査・平坦化され、マナサス・ジャンクションからブルラン川まで4マイル、さらにそこから2マイル延びて軍の背後にまで達するとされている。1862年1月7日にセンターヴィルから逃げ出した第6ルイジアナ歩兵連隊の脱走兵は、300人が鉄道計画のために働いていると証言している。ピンカートン探偵社(当時リンカーンの身辺警護や軍の請負を行っていた)は1862年1月27日に、この脱走兵の証言を元に、鉄道建設が進捗していることを確認している。 1862年2月5日の時点ではまだ建設は継続しており、2月の第1週には、鉄道はまだ完成していなかったと思われるが、2月17日には運用が開始された。
※この「鉄道の建設 [編集]」の解説は、「センターヴィル軍用鉄道」の解説の一部です。
「鉄道の建設 [編集]」を含む「センターヴィル軍用鉄道」の記事については、「センターヴィル軍用鉄道」の概要を参照ください。
- 鉄道の建設 [編集]のページへのリンク